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関東大震災
大正12年(1923)9月1日11:58マグニチュード7.8〜7.9
震源東経139.3゜北緯 35.2゜ |
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死者・行方不明者
142,807名
全壊家屋128,266戸
半壊家屋126,233戸
焼失家屋447,128戸
流出家屋868戸 |

関東大震災発生後、東京下町の方々から火気が立ち、やがて町中が火の海になってしまったのです。その火の気から逃げ回る人たちにとって、陸軍被服廠跡地は格好の非難場所になったのです。人が非難し始めた当初、被服廠跡地は広い敷地だったので、スペースにゆとりのある状態ででした。また火の気もそれほど近づいておらず、遠くに煙が見えるが自分たちの所まで火災が来るとは思えない状態でした。そのため一度は非難をした人たちが、自宅に戻り家財道具や布団等を運んでくるようになったのです。台八車に荷物を積んで来た人たちも多くいたそうです。おかげで広かった敷地ですが人と荷物で埋め尽くされるようになってしまいました。やがて、火の気が被服廠跡地にせまり、火の粉が非難した人々の頭上に舞うようになってきたのです。その火の粉が布団などに着火して持ち込んだ荷物が燃え出したのです。そして人も物も全て灰と化してしまったのです。犠牲者の数は4万余名に及びましたその跡地に。慰霊記念堂が建てられ。震災の犠牲者約6万人の遺骨が納められましたが、その後東京空襲での犠牲者で約8万人の遺骨が収められ。名称が東京都慰霊堂になっています。 |








震災記念堂の壁には、当時の状況を描いた大きな絵が飾られているので、その幾つかを紹介します。
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広場に持ち込んだ荷物が燃え出し、猛火による上昇気流で人々が木の葉のように舞い上がってしまう悲惨な光景。 |


震災の犠牲者は、十数日かけて露天で火葬されました。山と積み上げられた遺骨を見て人々は言葉が出ず、ただだまって合掌するだけだったそうです。 |

幽冥鐘(現地説明板より)関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国の仏教徒が寄贈した釣鐘。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促した。 また、各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言した。 その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表二名が来日し、京浜両地区の慰問を行い、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものである。 その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横綱町公園に安置することになった。 なお、このことについては上海の王一亭氏の特段の人力があった。 |

地震により不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約五千人の死を悼み、当時の学校長等が中心となって寄贈した、弔魂碑。この悲しみの群像は、第二次世界大戦たけなわのころ、戦力増強の一助として、金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけがむなしく残されていたが、昭和36年当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して、再建されたものである。 |

関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため朝鮮人が尊い生命を奪われました。この不幸な出来事をくりかえさないように願って建てられた碑。犠牲者の人数については、誇大数値化されている可能性が考えられるので。伏せておきます。 |

復興記念館
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