東京大空襲・戦災資料センター  いのはなトンネル  ランドセル地蔵

東京空襲の爪跡

 空襲で焼け残った鉄筋コクリート製のアパートや学校などの建造物は修復され活用されていましたが、それらの建物も老朽化に伴い取り壊わされ新しい建物に替ってしまいました。終戦後60年経った今日空襲の傷跡が残る殆どの建造物は存在しなくなりましたが、取り壊しを免れた2つの建物をここに紹介します。

 東京大空襲が行われた3月10日に前後して数回に渡り多摩地区の立川や八王子にも米軍は空襲を行っています。空襲が行われた地区は廃墟となり多くの犠牲者が出ました。

 最初に紹介するのは、東京都東大和市の公園に保存されている旧日立航空機立川工場の変電所です。何回も空爆を受け変電所があった地域一体の建物は崩れ、焼け野原になってしまいてしまいましたが、変電所の建物だけは残り当時の出来事を後世に伝えています。

米軍機による機銃掃射の痕が痛々しく残っています

 戦後この建物の所有者が変わりましたが、つい最近まで現役の変電所として使われていました。

慰霊碑裏の説明 

日立航空機株式会社立川発動機製作所は太平洋戦争中陸軍専管航空発動機生産工場として時局の要請にこたえていた。昭和20年2月17日、4月19日、4月24日と相次いで米軍機の空襲をうけ左記110名の尊い犠牲者を出し工場は廃墟と化した よってここにこれらの霊を慰めるため碑を建てるものである。

同敷地にあった給水塔も戦後50年以上現役として使われてきましたが、老朽化が激しく取り壊され一部がモニュメントとして残されています。

 次に紹介するのは旧江戸川区役所文書庫です。3月10日の東京大空襲の際、江戸川区も廃塵と化してしまいましたが、コンクリート製のこの建物だけは焼け残ったのです。こちらも取り壊しの危機に陥りましたが、市民の熱意によりこの地に保存されることになりました。

 外観はだだのコンクリート製の建物ですが、室内には空襲の火災によって焼け焦げたコンクリートの地肌が生々しく残っています。年に1回庫内が公開されるようなので、その時再び訪れてみようと思います。

 壁にはボールの後が沢山付いていました。近所の子供たちが壁に野球かテニスのボールを当て遊ぶのでしょう。

秋津の平和観音です。

 立川方面の空爆終えたB29が日本軍の対空砲を浴び東村山の秋津に墜落し乗員11人全員が死亡した事件が発生しました。

 墜落したB29は機首が地面に突き刺さり辺りは数十メートルの大きな穴ができてしまいまいました。空爆によって多くの同胞を殺した憎き米兵達ですが、機体が墜落した現場の近くの住民小俣権次郎さんは「仏になれば敵も見方も無い。」と死んだ米兵の遺骸を土から掘り起こしはじめたのです。この権次郎さんの姿に心を打たれ、傍観していた周りの人も手伝い始め、遺骸を丁重に葬ったそうです。

 その権次郎さんの夢は、B29の墜落した現場に観音さまを祭ることでした。観音さまの作成費用を貯えていきましたが、権次郎さんの体が健康うちに完成にはいたりませんでした。息子さんがその意思を引き継ぎ完成に至ったものです。

 謙虚な息子さんの性格もあって平和観音のことは秋津住民でも知っている人は少ないとのことです。小俣さんの隣に住んでいる40歳ぐらいの男性に聞いたところ毎年4月になるとアメリカから数名の遺族が未だに訪れるそうです。 

 権次郎さんは完成した観音様を拝むことはできませんでしたが、この観音様の木彫見本の完成だけは権次郎さんの息のあるうちに間に合い、既に目は見えなくなっていましたがこの木彫を抱き涙して喜んだそうです。

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